政権から報道機関への圧力はあるのか!?

政権から報道機関への圧力はあるのか!?

去る6月末に発売された「朝日ジャーナル緊急復刊号」で、ジャーナリストの池上彰氏が、TV放送に対する政権からの圧力の詳細を具体的に語っていると、ニュースサイト「リテラ」が報じたことで、ネット上では「池上氏が安倍政権のマスコミへの圧力を証言」として広く拡散されています。これに先立つ4月19日に発表された国連特別報告官デビット・ケイ氏による中間報告には、彼が日本滞在中、多くのジャーナリストが「政権から圧力を受けている」と証言したと書かれています。したがって、リテラの記事が本当であれば、池上氏の証言が重要な証拠になる可能性があります。

当会は、政治による放送への介入には一貫して反対する立場です。そこで、池上氏が何を語っているのか、問題の記事を確認してみました。

その記事は、池上彰氏と原寿雄氏(元共同通信編集主幹)による「重鎮対談 へたれメデイアを叱る 安倍政権という主人持ちのジャーナリストになるな!!」と題する対談記事です。

まず最初に池上氏は、国際NGO「国境なき記者団」が発表している「報道の自由度ランキング」で、日本が前年の61位から72位に下がったことに触れ、「2010年には11位だったことを考えると、急速に落ちています」と指摘しています。

昨今、この「報道の自由度ランキング」を取り上げた多くの報道が、その数字を無批判に受け入れ、一人歩きさせるばかりでした。しかし、このランキングで70位の韓国では、朴大統領に関する記事をめぐって産経新聞ソウル支局長が出国禁止処分を受け起訴されたことは記憶に新しいと思います(後に無罪判決を受け釈放)。そんな韓国よりも日本のランキングが下だと聞いたなら、納得する人はあまりいないのではないでしょうか。また、「特定秘密保護法」が日本のランク低下の理由とされることも不可解です。日本では、この法律による処罰は未だ一件もありませんが、このランキングの上位にある国々にも国家秘密保護のための法律があり、それに基づく処罰も多数実行されているのです。さらに言えば、2010年から今年までに、我が国では政権交代があったとはいえ、大きな政治体制の変化はありません。にもかかわらず、50以上もランクを下げるということ自体が、特定の政治的バイアスの存在を物語っています。これを「国際社会の評価」として無批判に紹介すること自体が、その特定の意図に協力した政治活動であるとも言えます。

一方、「フリーダムハウス」という米国の国際NGOが同時期に発表した「報道の自由2016」によれば、日本は44位ですが、アジア全体の中で「報道の自由がある」とカテゴライズされているのは日本と台湾だけです。もちろんこの「フリーダムハウス」にも政治的な意図はあると見られるので、この評価が正しいと断定できるわけでもありませんが、このような相対的な視点をテレビ報道はほとんど取り上げず、「日本では報道の自由が危機に瀕している」というストーリーに適した事柄だけを視聴者に伝えようとしてきました。池上氏の取り上げ方も基本的にそれと同様と言えます。

その上で池上氏は、「国が報道の自由を制限しているのか、それとも報道機関の側が勝手に自主規制したり、忖度(そんたく)したりして、自ら自由を狭めているのか。日本では後者が多いような気がします」と述べて、問題の多くは報道機関側の「自主規制」にあると指摘していますが、そこで池上氏が「自主規制」の例として最初に挙げているのは、高市早苗総務相が国会答弁で「政治的公平性を欠く放送を繰り返した放送局に電波停止を命じる可能性」に言及したことについて、ジャーナリストらが開いた抗議会見を、「NHKは取材にも行かなかった」という事実です。これを池上氏は「情けないですね」と批判しています。

ちなみに当会では、高市総務大臣のいわゆる「電波停止発言」については、野党の質問を受けて現行法に則った答弁をしたもので、電波を停止するという積極的な意図はなく、ただ法理上は可能であるから、未来永劫決して行わないとは言えないと言っているに過ぎないと考えています。これを大問題であるかのように取り上げた一部の報道や、この答弁に「怒って」記者会見を開くなどという行動は、相当の誤解または恣意性に基づいていると言わざるをえません。仮に放送法第4条が倫理規定であったとしても、問題はその常識的な指針にのっとる努力がなされているかどうか、です。倫理規定に過ぎないから無視してもよい、ということにはならないはずです。

さて、次に池上氏が語っているのが「政権からの圧力」についての話ですが、リテラでも引用している発言は以下のようなものです。
「最近までは権力を持つ側は『メディアに圧力をかけてはいけない』というのが共通認識でした。(略)ところが、安倍政権になってからは、自民党はおもなニュース番組をすべて録画して、細かい部分まで毎日のように抗議し、訂正を求め、注文をつけてくる。すると、テレビ局は『面倒くさい』となる。対応が大変で、次第に『文句を言われない表現にしようか』となってしまうのです」

この話が本当だとすれば、池上氏自身を含めてメディアが取り上げれば大きな問題にすることができるでしょう。しかし、そのためには具体的な裏付けとなる事実が必要です。池上氏には是非、検証可能な具体例を示して頂きたいと思います。

ところで、上記の池上氏の発言と同様の話をした人がもう一人います。先の東京都知事選挙に立候補したことが記憶に新しい鳥越俊太郎氏がその人です。「高市総務大臣の発言に抗議したジャーナリスト」たちが、外国特派員協会で記者会見を行った際に、その発言はありました。会見の質疑応答で、「取材や報道を理由にジャーナリストが逮捕されたりする状況は日本にはないのに、なぜメディアがそれほど萎縮するのか、どういう圧力があるのか」という質問がありましたが、これに答える中で鳥越氏は以下の発言をしました。

「わかりやすい形でメディアがプレッシャーをかけられて萎縮しているということではなく、目に見えない形で、気がついたら後退していたのが現実でしょう。(中略)メディアが権力を監視するのが世界の常識だが、日本では権力がメディアをチェックするということに今なっているわけです。で、一つ一つの番組を記録して、問題あると思ったら誰かしかるべき人に言うとか、オフ懇で言うとかして政権側の意思を伝える、ということを日常的にやっているわけです。だから日本のテレビ局はどんどん物を言わなくなって、これ以上言ったら地雷を踏むというような手前で止まっちゃう。」

もしや池上氏の話は、鳥越氏から聞いたこの話が元になっているということではないのでしょうか。鳥越氏は、その話を誰から聞いたのでしょうか。いずれにしても、確たる根拠がないまま、こうした伝聞のような情報を広めることは極めて無責任なことであり、ジャーナリストとしての矜持が問われねばならないと指摘せざるをえません。

一方、池上氏がもう一つ「圧力」の例として挙げているのは、自身の体験による事例です。
「私が特定秘密保護法についてテレビで批判的な解説をした時も、すぐに役所から『ご説明を』と資料を持ってやってきた。こういうことが日常的にあるわけです」

もしも、この役人による「ご説明」への対応次第で池上氏の立場に何らかの影響がある恐れがあったのならば、それは明らかに圧力ということになりましょう。しかし、池上氏ほど影響力のあるジャーナリストに誤解されては困る、説明したい、と感じるのは当然のことであって、それを圧力と受け取るのは過剰反応ではないでしょうか?そして結果として、池上氏は「萎縮」などしていないと見受けられます。「へたれメディアを叱る」という対談のタイトル通りならば、こんなことは圧力として受け止める必要はない、自身のように自主自律の精神を堅持すればよいと、後輩たちを激励するべきところではないでしょうか。

当会は、「政府による報道への圧力」、「報道機関による忖度、自主規制」のいずれにも反対いたします。しかし、事実的根拠のない「圧力」をさも実在するかのように言い広める行為は悪質であり、看過するべきでないと考えます。リテラがこの池上氏の対談記事を「政権からの圧力の詳細を具体的に語っている」として広めたことも、実に無責任と言わざるをえません。

ところで、当該対談記事で池上氏の相手を務めている原寿雄氏の話も興味深く拝読しましたので、最後に言及しておきます。

池上氏は、メディアの「萎縮」の原因として「政権の圧力」の他に、視聴者からの抗議、いわゆる「電凸」を挙げていますが、それに対して原氏は次のように述べています。

「私はメディア自身も権力化していることが問題だと思っています。それでも国民によるメディアへの監視が厳しくなり、対抗できるようになってきた。それではじめてメディアと国民が対等になれるんです。」

さらに原氏は、「大衆の抗議」に対するメディアの対応について「勝ち続けではダメです。メディアと大衆が戦って、たまにはメディアが負けてもいいんです」と述べています。

これに対して池上氏が「たまにではなく、最近はよく負けてます(笑)」と指摘すると、答えて原氏は「もちろん、排他的な熱狂に圧倒されてメディアが負けてしまうのは良くないですよ。ただ、民主主義では、批判されたら反論できる。その場をメディアが設定できるわけです。総括することが大切ですね。それが民主主義なんです」と語っています。

このような原氏の考え方と、当会の問題意識とは共通するものがあります。「メディア自身も権力化している」という事実認識は、まさに当会の発足の理由と言ってもよいものです。当会が「国民による監視の目」を代表しているとは申しませんが、当会が提起した問題を契機として、放送というメディアのあり方を考える議論に、より多くの方に加わって頂きたいと願って活動しているところであります。

一方、原氏の発言の中には、現今の在京TV局における報道の在り方に通じていると感じるものもありました。例えば原氏は自らのジャーナリズムの原点について、こう答えています。

「僕は自らが体験した戦争中の日本を否定することで、新しい時代を作ろうと思ってジャーナリストとして仕事をしてきました。しかし、安倍さんが書いたり話したりしていることを読むと、安倍さんは我々の世代が否定した日本を生き返らせようとしているのではないでしょうか」

もちろん、先の大戦について深い反省や考察を傾けることは大切です。昨年の安倍首相による「戦後70年談話」は左右両陣営から批判されましたし、実際の政策、行動については各自が判断し、必要と思う時に批判していけばいいことです。

しかしながら、「戦争中の日本を全否定すること」を大前提とし、否定をしなければ民主主義の敵とでもいうような、排他的な思い込みに囚われて「ジャーナリズム」に携わってきたとしたら、自らが正義と信じる意見を全面的に展開し、自らが異端視する考えを報道から締め出すことが有っても良いと考えるでしょう。そうだとすれば、戦争に非協力的な者を「非国民」とした戦時中のメディアと、実は本質的に変わりないのではないでしょうか。そのような排他的な発想が日本のメディアに根強くあることが、昨年の安保法案に対する報道のように、賛成論が存在しないかのような、一斉で一方的な報道姿勢や、岸井成格氏の「メディアとして(安保法の)廃案に向けて声を上げ続けるべきだ」という発言にもつながったのではないか。そのように推察することができます。

前述の「報道の自由ランキング」の報道を見ても、異論を挟むことを許さない一方的な姿勢が垣間見えます。これはもはやジャーナリズムではなく、プロパガンダの領域であって、池上氏にはその領域に足を浸して頂きたくありません。一般視聴者からの放送への抗議が増えている背景にも、インターネットでは容易に知ることができる多角的な情報を、恣意的に排除し続ける放送事業者の頑な姿勢に、少なからぬ視聴者が苛立ちを覚えていることの表れと考えることはできないでしょうか?

国民が、正確かつ多様な情報を受け取った上で、各自が冷静に検討し、我が国の主権者としての責任ある判断をしていく。それを可能とするためには、放送法を遵守した放送、すなわち「政治的に公平で、事実を曲げず、意見が対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにする」放送が必要だと当会は考えます。そのため、今後とも冷静な議論を喚起する活動を、虚心坦懐に進めてまいる所存です。