11月8日のTBSラジオ「荻上チキSession22」の中で、司会の荻上氏が「与党に時間を与えたらどうなるか」の一例として、5月11日の内閣参議院内閣委員会での和田政宗参議院議員による質疑の一場面を取り上げました。

その中で和田議員は、教育勅語には「今にも通じる部分がある」として、それを示す例として倉山満氏による「逆教育勅語」を提示しています。「逆教育勅語」は、教育勅語の意味をひっくり返した言葉を列挙すると、道徳的に極めて不穏当になることを示すことで、逆説的に教育勅語の道徳的妥当性を主張したものです。これを示した上で和田議員は「現行憲法や教育基本法に反しない限り、学校教育において教育勅語を使用しても差し支えないということでよろしいか」と質問しています。

この和田議員の質問に対して番組では、コメンテーターの木村草太氏が、倉山氏の「逆教育勅語」について「考え方が間違っている」と批判し、和田議員については、「もうちょっと日本語の読解力のようなものを身に付けてから質問に立ってほしい」などとして、この逆教育勅語を取り上げたのは「いらない」ことだったと、司会の荻上氏と共に一蹴しています。

これについて「偏向報道ではないか」とのご意見を頂戴しましたので、検証チームの一員としての所感を以下に述べます。

 

この場面では、和田議員の意見に対して木村氏が別の意見を提示しているという形になっていますので、放送法第4条1項4号の「意見が分かれる問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」という要請から、極端に逸脱したものとは言えないのではと考えます。司会の荻上チキ氏も木村氏に共感しているのでかなり一方的には聞こえますが、そうかと言って、番組司会が木村氏に反論を述べるべきだったとまでは言えないのではないでしょうか。

しかしその上で、木村草太氏のコメントについて気になるのは、倉山満氏の「逆教育勅語」に対して「考え方が間違っている」と断定している点です。

木村草太氏がコメントの中で述べている「正しい逆教育勅語」も、倉山氏による「逆教育勅語」と同様、教育勅語に対する一つの解釈に基づいたパロディにすぎません。一方が正しくて、他方が間違っていると断定できる性質のものではないのではないでしょうか。

例えば教育勅語には「之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス」とのくだりがあります「これは古今東西に通用するものである」との意味です。このことからすると、「教育勅語は『大日本帝国のために親孝行をしよう、大日本帝国のために友達を大切にしよう』と言っている」という木村氏の解釈が正しいとは必ずしも言い切れないでしょう。

「私のこの解釈の方が正しいと思う」と主張するならまだしも、木村氏は倉山氏の考え方が完全に間違っていると断定し、和田議員に対して「日本語の読解力」が不足していると貶めるような発言までしています。これは甚だアンフェアで礼を欠く態度であると思います。

しかし一方で、ラジオ番組全般を見渡せば、一方的なコメントを述べる番組はたくさんあると思われます。それらの中で、視聴者の会としてこの番組を特に問題にするべきかどうかについては、少し慎重に考えるべきではないでしょうか。

「放送法遵守を求める視聴者の会」が望むべきものは、木村氏が自由にコメントできないようにすることではなく、木村氏への厳しい批判も含めて多様な意見が飛び交う、自由闊達なメディア環境ではないでしょうか。

そう考えると、「視聴者の会」として当該番組を問題にするよりも、個人の名において木村草太氏のコメントを批判することの方が望ましい対応と言えましょう。例えば上念司氏が自身のレギュラー出演番組で木村氏を批判するとか、あるいは和田議員と倉山氏が木村氏や荻上氏に公開討論を求めるなどが考えられるかと思います。